カイロプラクターをしております院長の田中英治です
30歳から、本格的にカイロプラクティックを学び始め、32歳からは雇われ院長として数多くの臨床経験を積ませて頂きました。そして、39歳に独立し、自身のカイロプラクティック院を開業させていただくことができました。
少しだけ、私とカイロプラクティックとの繋がりのお話をさせてください。
17歳の頃プロボクサーになり、プロボクサーとして活動しながら営業マンとして働いていました。
27歳の頃、営業の最中に徐々に右耳が聴こえなくなり、そのまま耳鼻科に通院し、そして検査入院になりました。二週間入院していましたが、一向に右耳は良くならない、その為、入院してても意味がないため右耳は聴こえないままでしたが退院をしました。
その後、すがる思いで鍼灸整骨院にいきました。
そこで先生に言われた言葉は「悪くなった耳は良くならないよ。一生付き合って行くしかないよ」と言われ、将来が暗く見え絶望的になりました。
絶望的になっている中、幼いころ母親と通っていた、カイロプラクティックの先生を思い出しました。
先生は引退していましたが、すがる思いで先生にアジャスト(矯正)をお願いしに行きました。
先生は「首だけ矯正しとくね」と言い、頸椎の矯正だけをしてくれました。
一カ月くらい通うと、今まで聴こえていなかった耳が、耳鳴りをしていた耳が、徐々に耳鳴りがなくなり、一カ月がたつ頃には、耳が完全にきこえるようになっていたのです。
絶望的だった私の気持ちが救われた瞬間でした。
もともと私はプロボクサーをしていたので(23歳で引退しています)ボクシングジムでも作りたいという思いがありましたが、この経験をしたことで「カイロプラクティックって凄い‼」「絶望していた人を救える」「私が経験したことを糧に、多くの方たちの身体を良くしたい」と思うようになりました。
それが私が、カイロプラクターになるきっかけになったことです。
ぜひ、院長からの挨拶もご観覧ください。
【カイロプラクターとしての学歴】
少しだけ、私とカイロプラクティックとの繋がりのお話をさせてください。
17歳の頃プロボクサーになり、プロボクサーとして活動しながら営業マンとして働いていました。
27歳の頃、営業の最中に徐々に右耳が聴こえなくなり、そのまま耳鼻科に通院し、そして検査入院になりました。二週間入院していましたが、一向に右耳は良くならない、その為、入院してても意味がないため右耳は聴こえないままでしたが退院をしました。
その後、すがる思いで鍼灸整骨院にいきました。
そこで先生に言われた言葉は「悪くなった耳は良くならないよ。一生付き合って行くしかないよ」と言われ、将来が暗く見え絶望的になりました。
絶望的になっている中、幼いころ母親と通っていた、カイロプラクティックの先生を思い出しました。
先生は引退していましたが、すがる思いで先生にアジャスト(矯正)をお願いしに行きました。
先生は「首だけ矯正しとくね」と言い、頸椎の矯正だけをしてくれました。
一カ月くらい通うと、今まで聴こえていなかった耳が、耳鳴りをしていた耳が、徐々に耳鳴りがなくなり、一カ月がたつ頃には、耳が完全にきこえるようになっていたのです。
絶望的だった私の気持ちが救われた瞬間でした。
もともと私はプロボクサーをしていたので(23歳で引退しています)ボクシングジムでも作りたいという思いがありましたが、この経験をしたことで「カイロプラクティックって凄い‼」「絶望していた人を救える」「私が経験したことを糧に、多くの方たちの身体を良くしたい」と思うようになりました。
それが私が、カイロプラクターになるきっかけになったことです。
ぜひ、院長からの挨拶もご観覧ください。
【カイロプラクターとしての学歴】
30歳 日本カイロプラクティックドクターJCDC札幌 二年間通いながらマッサージのバイトをする。 |
32歳 札幌円山のカイロプラクティック院に就職、雇われ院長をする。そこで、7年間の臨床経験を積む。 |
塩川スクール ガンステッドベーシック学部でアジャストメント(矯正)の質を高める |
39歳 札幌で開業する。 |
41歳 WHO国際基準カイロプラクター 資格取得 |
48歳 「もっとカイロプラクティックの事を広めたい」「地域の方たちに寄り添った治療院をやりたい」という思いから、北広島市で「まごころはんずおん」を開業。 |